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アート
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「日本人らしさ」というものを、ことさら海外で強調したくなった時がある。英国に住んでいた頃、嫌でも日本人であることを、肌や髪の色、体格、言語で思い知らされた後、日本人としての特徴をあえて強調する試みをしたくなったのだ。髪は黒髪を強調するようにボブで切りそろえ、眉はドーム型に細く、アイラインは黒く吊り目がちに。外国人のイメージする日本人女性のカリカチュアを演じていたわけだ。「エキゾチック」「東洋的」「神秘的」という美辞を受ければ尚更、「日本人」っぽい外見と動作を作っていく自分がいた。
しかしある日気づくのだ。自分が外国の人たちが描いた日本人のイメージに翻弄され、個性を強調しているつもりが逆に、全くのステレオタイプを演じていたことに。個性の中の没個性ともいうべきか。英国の女性たちのグラマラスな身体、高い鼻、宝石のように青い目、陶器のように白い肌――これらに対して、自分はコンプレックスを感じていたのだ。自分に対する防御のようなものだったのだ、日本人らしさを装うということは。自信の無さの裏返しだったのだ、結局のところ。この格好で日本に帰ったら、友人達は私がずいぶん変わったと思うことだろう。「私らしくない」と感じる人もいることだろう。確かに日本人として海外に誇りたい、強調したい点はある。しかし、それが他に対する対抗ではだめなのだ。自らが誇りとする気持ちに基づいて、他に押し付けることなく、涼やかに日本人であることを喜びたい。そう思えるようになって、私の装いは変わっていった。日本人としてではなく、自分としての個性を語る装いに。
横山大観の「夜桜」はこれでもかというくらい日本らしさを強烈に打ち出した作品である。それはこの作品が昭和4年「ローマ展」に出品されたということが大きく影響しているだろう。桜、様式化された花弁、銀色の月、平坦化された背景。昭和4年の作品というよりも、江戸時代、桃山時代へ回帰したと感じるほど、大和絵的なのである。銀色の月やデザイン化された花弁は明らかに琳派の血を感じさせる。しかしそこに片意地はった所は全くみられない。西洋絵画に対するコンプレックスも感じ取れない。大観は自らの日本人としてのアイデンティティそのものを、日本絵画のひいては日本文化に対する誇りを、この「夜桜」に込めたこの大観は「これが日本だ!」という直球勝負をローマに、世界に投げたのだ。そこには、西洋的価値観と対立する姿ではない、自らの立つ所の素晴らしさを知っている者の確信がある。私が英国で求めたものは、この確信だったのだ。
さらに大観の凄さと個性を感じさせるのは、篝火を入れたことである。篝火が桜の下で焚かれていることによって、時間の経過と花見をする人間の存在も感じられるようになった。篝火から煙がたなびき、桜の花弁が舞う。まもなく宴が始まる。ただ自然を表現するのではなく、自然と人間の調和という、まさに日本文化の大きな特徴を映し出した。これを見たローマの人々は度肝を抜かれたことだろう。そこにまるで桜が咲いているように、篝火が燃えているように、感じたことだろう。日本文化そのものがそこに咲き誇っているように感じたことだろう。私は、この「夜桜」を描いてくれた大観に、世界に発表してくれたことに、日本人の一人として胸が熱くなるくらいの感謝を禁じえない。
本当は六曲一双、2枚組の屏風である。
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