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アート
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■尾形光琳 「燕子花図屏風」 真の燕子花の姿とは? |
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国宝:根津美術館所蔵
■写実から離れた燕子花
「燕子花図屏風」尾形光琳40歳中ごろに制作された六曲一双の屏風絵である。金箔の背景に、群青と緑青のみで燕子花の満開のさまを描き出した。右隻に4つの群が画面中央に描かれ、左隻にも4つの群がこれは対角線上に描かれている。大変洗練された構図でありリズム感がある。しかしこ燕子花の群れは実際の燕子花の様子とは大きく異なる。第一に、花の色は群青のみのシンプルなものではない。第二に、燕子花の群れはこの屏風絵のようにきちんと配列されているわけではない。右隻の左端と三扇目、そして左隻の右端の二つの燕子花の群れは全く同じ柄である。つまり同じ図像が繰り返されている。おそらく光琳は型紙を使って描いたと思われるが、自然界では当然このような同じモティーフの反復などありえない。第三に光による陰影は全く排除されていて、大変平面的である。遠近法は採用されていない。第四に背景が金色ということは自然界ではありえないし、燕子花が咲いている池やその周りの風景も空も全く描かれていない。つまり光琳の描いた燕子花は自然のあるべき現実の姿とは大きく乖離しているということである。それは西洋における植物の絵と比較してみると顕著である。なぜ、[燕子花図屏風]はこれほど自然のあるがままの燕子花と乖離することになったのだろうか。
■自然の単なる模倣は光琳にとって意味がなかった
光琳にとって、自然をありのままに模倣することを重要としなかったのだ。日本では西欧絵画に見られるような意味での三次元的世界は求めない。むしろ二次元の平面という画面の特性を尊重する。そして画家の視点は一箇所に固定しておらず自由に移動する。燕子花を平面の屏風絵として描くことに力点があり、燕子花ありのままの姿を写し出すことに価値観を置かなかったのである。
また、現実ではありない金地の背景については、日本美術に多く見られる「切り捨ての美学」を見出すことができる。金地の背景は装飾的効果の他に、背景を覆うことによって画面の奥行きを閉ざし、平面性を強調する役割と、画面の中の不要なもの、余計なものを覆い隠して、主要なモティーフだけを浮き立たせるという役割もある。写実性の原理に基づく西欧絵画であれば当然描かれているだろう池の水面や空は一切切り捨てられている。光琳による「切捨ての美学」が金一色の背景という選択をならしめたといえる。
[燕子花図屏風]は現実の自然から大きく乖離しているが、だからこそ大変論理的な構成をなしており、不具合な点がない。理性的な均衡がそこにはある。[燕子花図屏風]自体が自己完結した、一つのパーフェクト・ワールドとなっている。
■光琳の真の燕子花
プラトンのイデア論によれば、物事の真の姿、すなわちイデアは、絵画によっては決して写し取ることができないものとしている。だからこそ、西欧絵画においては、出来る限りイデアに近づけようと、画家達は熱意をもって目に見えるまま、ありのままの事物を写し取ろうと努めた。しかし一方でプラトンの模倣説は、むしろ現実に存在するものの外形を模写すること以上に模写すべきものがあると主張しているのであろう。光琳もまた、真の燕子花を描こうと努め、ただその方法は西洋絵画と異なり、自然の模倣では描きえないものを描こうとしたといえるのではないだろうか。では、光琳にとっての真の燕子花とは何か。それは伊勢物語の中の燕子花だったのではないだろうか。
■伊勢物語の再現
[燕子花図屏風]は「伊勢物語」九段東下りの三河の国八橋の場面から着想された。この場面で主人公、在原業平が一面に咲いた燕子花を見て歌を詠むのである。「伊勢物語」は当時の教養人にとって必須の、あるいは愛好された文学であり、この物語に着想した絵画・工芸品は多い。当該作が大きく他と異なるのは、八橋もなく人物もおらず、ただ燕子花だけが描かれているという点である。つまり観る者は「伊勢物語」を読んでいることを前提とされ、心の中で燕子花からこの物語の画面を連想することを求められる。この屏風絵に囲まれた時、観る者は自分が八橋の上に立っているような、燕子花の群れに囲まれているような思いがするのではないだろうか。この屏風絵においては観る者は絵と対峙するのではなく、囲まれ絵の中の一部となり、ひいては「伊勢物語」の一部となると考える。だからこそ空も池も橋も人物も描く必要はなかったのであろう。
■連続性の美学
特に燕子花の群れの連続性に注目したい。ルネッサンス以降の西欧において、絵画は周囲の環境から独立したひとつのミクロコスモスであり、一つの世界としての独立性を持たなくてはならないという理念が強い。画面の枠によって切り離されるため、画面の枠の規制が強い。これに対し、日本の絵画空間では画面の枠の規制はそれほど強くなく、描かれた部分によって描かれていない全体を暗示し、画面の外にも世界が続いていることを前提としている。絵画空間と外部世界との連続性は、西欧における「完結性の美学」と対峙している。[燕子花図屏風]の場合、燕子花の群れは屏風の外まで連続していることが想起され、描かれた八つの群れ以外に無数の燕子花の群れが咲き誇っていることを観る者が想像できる。またモティーフの連続性だけでなく、八つの燕子花の群れによって伊勢物語という文学を想起させるという、絵画から文学への連続性をも、この作品は可能にしている。
光琳にとっての伊勢物語の燕子花の真の姿を表現することは、決して自然そのものの模倣では不可能であり、観る者の心の中にイデアの像を結ぶべく、舞台装置として用意したもの、それがこの屏風絵といえるだろう。
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