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アート
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■アンチ・アングルの画家
ギュスターヴ・クールベ(1819〜1877年)はリアリズムを提唱したフランス19世紀の画家である。レアリスム、写実主義はクールベ自身が己の絵画の真髄として唱えたものであるが、彼の作品を特徴づけるものとして、リアリズムの他に、あるいはリアリズムに帰結する、反抗精神があげられる。クールベが作品で示した反抗精神の対象の一つが既成・伝統的な絵画の価値観である。クールベが作品を発表し始めた当時、フランスでは新古典主義のドミニク・アングルやロマン主義のウージェーヌ・ドラクロワが画壇の重鎮となっていた。この二人の画家は共に日常から遠ざかった主題を理想化された姿で描いたという点で一致している。また、古典古代、キリスト教、東洋趣味など、ヨーロッパのハイソサエティに共有される教養を前提とした作品であった点も共通している。クールベはこの既成概念と化した美の理念に対するアンチテーゼを作品にしたといえる。

■オルナンの埋葬
1850年に発表された[オルナンの埋葬]は当時酷評された作品だが、まさに当時の美の概念に反抗したが故に酷評されたのである。新古典主義はモティーフを美化あるいは理想化したが、[オルナンの埋葬]で描かれた人物は美化されることなく、ありのままに描かれている。また選ばれたモティーフそのものが革新的であった。歴史上や神話の人物ではなく、普通のオルナンの村の人々が描かれているのである。普通の人々を描いた作品がその頃もなかったわけではないが、一般に風俗画というジャンルに分類され小さなキャンバスに私的な目的を持って描かれた例が多かった。しかしクールベは、歴史画と同様縦3メートル横6メートル超という巨大なキャンバスに描いたのである。絵画のジャンルにおいて、歴史画が最も崇高であるとされていた当時のフランスのアカデミックな概念に真っ向から反抗するものであった。それこそ、クールベがこの作品に「オルナンのある埋葬の歴史画」という原題をつけた所以である。
加えて、この作品は一定の知識・教養を前提とするものではなく、鑑賞者が難なく理解することできるテーマである。クールベは実際にある自然や人物のありのままの姿を、理想化することなく、描き出す。クールベの目指した芸術はそこにあり、レアリスム、写実主義はクールベにとって当然の帰結であったろう。
■社会が写実主義を求めた
このようにクールベが既成の芸術概念に反抗し、これまで伝統的な画家が描かなかった一般の人々や自然そのものを、理想化することなくありのままに描き始めた理由については、社会の大きな変化があげられる。クールベの生きた19世紀は産業革命が急速に進行し、都市の工業化を始め社会に大きな変革が起こった時代だった。大きく変化していく社会を目の前にして、今起きている変化をテーマに作品を描こうという動きが出てくるのは当然であろう。またフランスでは革命・共和制・帝政など多くの政治的変遷があった。革命を経てパトロンとして美術を支えた国王や貴族は倒され、もう一方のパトロンだった教会も力を弱めた。工業化の結果もたらされた経済的繁栄は、絵画の買い手の蓄積を意味した。新しい買い手はアカデミックな主題よりも私的な主題を好む傾向にあり、必ずしも歴史画が好まれるわけではなかった。こうして伝統的な歴史画が絵画ヒエラルキーの頂点にあるという概念は崩れたのである。一言でいえば、近代という新しい時代には絵画の受容層も大衆化、多様化していったのである。歴史画の呪縛から解き放たれ、画家たちは新しい主題を自由に描くようになった。

■画家のアトリエ
次に、クールベのもう一つの反抗の対象、帝政に関して、[画家のアトリエ]を例に挙げて考えてみよう。1855年の第一回パリ万国博覧会で出品を拒否された一作である。この作品には中央の画家とモデルの周りに様々な人物が描かれており、それぞれが寓意を持っていると言われている。キャンバスの向かって左下にだらしない格好で座り込んでいる女性は当時の社会の悲惨さを象徴し、髑髏を乗せた新聞は当時の政府に骨抜きにされたジャーナリズムを批判し、キャンバスのバックの方に墓堀人、娼婦、失業者達を描き込むことによって社会の底辺に暮らす人々の貧しい生活を暗喩している。そして画面の左側で銃を持っている人物が、クーデターで帝位を奪い第二帝政を始めたナポレオン三世とみなされる。つまり第二帝政下の社会の悲惨さを[画家のアトリエ]という芸術によって表したといえるのである。
■ナポレオン三世への反抗
また1864年の[フラジェーの樫の木]もナポレオン三世への反抗を描いた作品とみなされる。この作品の原題は「ヴェルサンジェトリクスの樫の木と呼ばれるフラジェーの樫の木、アレシア近くのシーザーの陣地、フランシュ=コンテ」で、フラジェーはオルナン近くのクールベ家の領地で、ヴェルサンジェトリクスはアレシアの地でローマ軍に対抗したガリアの英雄であった。クールベはその名を冠する故郷の巨木を描くことで、政治的・文化的に圧迫される民衆の反抗精神を描いたと考えられる。また井出洋一郎によれば、当時ナポレオン三世の命で考古学的発掘がフランス各地で行われ、ガリアとローマの激戦地アレシアがどこか話題になっていたが、クールベは故郷のフランシュ=コンテ地方説を力説していたことも、この絵画を描きこのような長い原題を描いた一つの理由としている。この原題そのものがナポレオン三世への反抗を示すものとの解釈も可能である。
クールベがナポレオン三世に反抗した理由については、個人的なものもあるだろう。1853年サロンに出品した[水浴の女たち]の画面を皇帝が醜悪だとして鞭で打ったという事件があった。またクールベのサロン出品作がナポレオン三世の策動により落選させられたという噂もあったのである。しかし、このような個人的な感情の他に、クールベの思想に皇帝への反抗の理由を見出すことができる。クールベの思想形成に大きな影響を与えた一人が思想家プルードンであり、彼は無政府主義的な社会主義者だった。クールベ自身社会主義に傾倒した時代もあり、後には共和主義者として政治活動にも参加していく。労働者政権、パリ・コミューンが誕生すると、クールベは積極的に参加し、芸術保護委員会の会長を務めた。皇帝による帝政という政治形態はクールベにとって受容しがたいものであった。前述したように共和制を経て絵画の革新的傾向が生まれたものの、ナポレオン三世の第二帝政によりその芽は迫害を受け、絵画は再び保守的な傾向が強まっていく。クールベにとってナポレオン三世は古典主義・保守主義の象徴と写ったであろう。
クールベは1870年代に入って数々の海景画を描き、サロンでも絶賛されることになるが、レジオン・ドヌール勲章の受け取りを「国家は芸術に介入すべきではない」として拒否した。クールベの反抗精神の極みといえるだろう。私はこの画家が、どうしようもなく好きである。
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