アート

●神坂雪佳 「京都琳派の再生者」 

●京都で琳派を再生●
画家であり版画や工芸の図案家(デザイナー)であった神坂雪佳(慶応2年(1866年)-昭和17年(1942年))は、京都における琳派様式再生の中心人物であり、京都工芸会のリーダーであった。雪佳は光琳を始めとする琳派図案の芸術性を高く評価し、その意匠を絵画だけでなく、染織、工芸など身の回りのあらゆる品々へ応用していった。
でも、雪佳の琳派は、光琳よりももっとゆるゆるとした線で、おっとりとした動植物の世界を描き出した。1909年から翌年に渡って刊行された全三冊の『百世草』が有名で(今でも画集として売られている)、単なる図案集ではなく、その画集自体を鑑賞する目的に作られたものだ。モティーフとして燕子花、波、梅、松、犬の子、雷神など琳派でよく取り上げられる素材が選ばれ、宗達風、光琳風、あるいは乾山風に図案で表現されている。

●アール・ヌーボーを吸収●
雪佳はもともと伝統的な日本画を学んでいた。それが琳派に強くひきつけられていった第一の要因として、浅井忠とアール・ヌーヴォーの影響が考えられる。1900年(明治33年)のパリ万国博覧会はアール・ヌーヴォー美術の花盛りで、ジャポニズムの最高潮の時でもあった。浅井忠はこの博覧会を日本から視察に行った画家の一人であったが、博覧会に出品されている作品の多くが日本意匠を参考にしている点、西洋での日本美術における深い関心、装飾芸術への高い評価を実感し、帰国後明治35年に京都高等工芸学校に赴任し、図案活動の研究の一環として遊陶園を設立した。また明治39年には京漆園を結成し図案指導に当たった。この遊陶園と京漆園の両方に雪佳は参画しているのである。当時の西洋を席巻していたアール・ヌーボー様式は、雪佳に多大な影響を与えたと考えられる。1900年の博覧会をきっかけに装飾芸術の極みとして世界に評価されていく光琳を始めとする琳派、そして装飾芸術興隆の動きは、明治30年代以降、アール・ヌーヴォ−の受容として日本に及んでいき、その中で光琳はフランスを経由した新しい図案の作家として逆輸入され再評価されていくのである。

●京都・西陣業界の活躍●
また、西陣の染織業界の影響が考えられる。雪佳が暮らした京都の西陣業界は明治前半期に近代化のために欧州を頻繁に視察し、西洋の技術とアール・ヌーヴォーの意匠を早くから持ち込んだ。京都の染織業界はアール・ヌーヴォー様式、西洋で再生された琳派様式をいちはやく染織に持ち込んだのである。

●ウイリアム・モリスの影響●
他にモリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響も考えられる。雪佳は明治35年にイギリスのグラスゴー万国博覧会に視察に行き、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフト運動に多大な関心を寄せて帰国した。帰国後、安易なアール・ヌーヴォー追随に批判的な立場を取り、モリスの影響も入れた雪佳独自の意匠としての琳派図案集である『百花図』を完成させた。モリスの「生活のすべてに芸術を」という指針は、琳派のものでもあり、雪佳のものでもあったのだ。

●琳派を継承することこそ日本美の継承●
雪佳は「純粋な日本画と称し得べきものは光琳の画をはぶいて他に求めることは能はないのである」と述べていて、琳派を継承することは同時に日本美術の本質を表現するものだとしている。また雪佳の活動は絵画に始まり、染織、陶芸、漆芸、木工、金工など工芸全般に渡り、室内装飾や造園にまでと、その範囲は大変広い。雪佳の目指した芸術は、展覧会に飾られるものではなく、人の手に触れ実際に使われることを目的としていたのである。琳派の特徴の一つが、扇・団扇・蒔絵・着物・陶器など生活品の意匠化も行ったこと、絵画だけではなく一般の生活用具にまで美的表現を浸透させたことを考えれば、雪佳が琳派様式から継承したものはその意匠だけでなく、応用芸術、生活全般に行き渡る美という琳派の基本コンセプトそのものだったのではないだろうか。雪佳は京都における伝統工芸の擁護、琳派芸術の継承の奨励に力を注いだが、それは日本の応用芸術、その代表としての琳派様式の生き残りを確実にすることが目的であったのではないだろうか。近代化(それは西洋化とほとんど同じ意味であった)が進む日本において、雪佳にとって美やデザインに対する伝統的な日本の感覚を大切にすることが至上命題となっていったのではないだろうか。


トップへ
戻る
前へ
次へ