アート

●葛飾北斎 諸国滝周り「木曽路ノ奥阿彌陀の滝」 未来を先取りした浮世 


滝落ちて群青世界とどろけり 水原秋櫻子
北斎のこの浮世絵を見た時、この俳句が心にこだました。溜まった滝水がどんと下へ落ちていく、その音が聞こえてきそうな作品だったからだ。

江戸も幕末に近くなる頃、『江戸名所図会』や、十返舎一九の『道中膝栗毛』に代表される出版界の旅行ブームが浮世絵にも影響し、見知らぬ風景や風俗に好奇心を駆り立てる風景画が主題となることが多くなった。これまで役者絵と美人画にほぼ限定されてきた浮世絵の主題に、風景画という新しいテーマが加えられたのである。
諸国滝周りは全国の八つの名滝をいずれも人物とのセットで描きだしている。中でも「木曽路ノ奥阿彌陀の滝」が素晴らしいのは次にあげる点が大変魅力的だからだ。

第一に滝の装飾的な美しさである。上から下へ流れるのは当然なのだが、この絵の場合「溜め」がある。崖上で水が溜まり、溢れ出し、そして滝壺へ落ちる。水の流れにリズムがあるのだ。また崖上で水が溜まり今にも溢れでようとしている様子が見事である。琳派の水流の表現をイメージさせるような水の文様が、日本独特の造形美を遺憾なく発揮している。そして滝が滝壷に落ち込む所が描かれていない点も素晴らしい。描かないことによって、かえって画面の外の空間を意識させるという日本画の表現があるが、この作品の場合、それが見事に効果を発揮している。滝壷が描かれていないからこそ、この滝の大きさ、流れおちていく水の勢いが強調されるのだ。

第二にその色彩である。富嶽三十六景もそうだが、北斎の青の使い方は当時の最先端であった。18世紀初めにプロイセンで発明されたプルシャン・ブルー、日本名はべろ藍。この青は鮮やかで変色せず、しかも安価な青だった。北斎は「富嶽三十六景」にこのプルシャン・ブルーを日本の浮世絵師として初めて、しかも極めて大胆に使った。しかも他の諸国滝周りの絵と一線を画しているのは、その色彩の統一性なのだ。すべてが青から緑へのグラデーションで描き出されている。他の「和州吉野義経馬洗滝」は青・緑の他に岩肌と馬が赤々と着色されている。また「下野黒髪山きりふりの滝」の場合やはり崖の一部に茶が使われている。対してこの「木曽路ノ奥阿彌陀の滝」の場合、青と緑以外の色は排除され、清々しい色彩の統一感によって、滝の周りの涼やかな空気さえ感じさせることに成功している。北斎は既に在る物を在るがままの色で描き出すということから離れ、絵のモチーフを自分の思うがままに操り色彩を創り出していくという、印象派やフォービズムを先駆けるような表現を極めているのである。

色彩だけでなく、滝の形も崖の形も在りのままではなく、幾何学的要素に一度還元してから再構成した北斎オリジナルの阿彌陀の滝なのである。北斎は自然を在りのままに描き出したのではなく「絵組」した。そしてそれがまた北斎の浮世絵の素晴らしさでもあるのだ。北斎はセザンヌやキュビズムよりも先を歩いていたのだ。

第三に人物のおかしみ、哀切さである。諸国滝廻りの連作には人物が必ず描きこまれているが、「木曽路ノ奥阿彌陀の滝」の人物は特にストーリーを感じさせる。三人の人物が描きこまれているが、二人組と一人という組み合わせだ。二人組の方は刀を指しているので武士と思われる。また大きな荷物を持ち、弁当の入れ物も何やら豪勢な作りなのだ。二人は滝を見ながら弁当を食し、酒でも酌み交わしながら話をしている。一人は顔をしかめ腰が引け気味なのが面白い。もう一人の武士に何かをいわれて「何をいうのだ」と及び腰になっている様子が描かれている。何を話しているのか知りたくなるような二人の様子なのだ。またもう一人は粗末な敷物の上に背を丸めて座り、鍋のようなものを沸かしている。ところがこの男が滝に背を向けているのだ。滝を見にきながら滝とは反対向きに背を丸めている男。二人組の従者なのかもしれない。着ているものも二人組よりも粗末だ。この男が二人組の従者だとしたら、大変な思いで大きな荷物を担いでここまで上ってきたのは彼だったであろう。そして主人の食事の世話をしているのだろう。せっかくの名滝も見ずに。もし二人組とは関係ない町人だったとしても、滝見の特等席は武士に占領され、その脇でひっそりとしていることになる。江戸の封建社会の悲哀を感じさせる人物構成だ。

北斎が諸国滝廻りを描いたのは彼が74歳の時、1833年(天保四年)のことであった。富嶽三十六景を描いたのが72歳であった。当時の平均寿命を考えればまさに最晩年といってもいい。北斎はその住居と画号を頻繁に変えたが、1820年(文政三)〜1833年(天保四年)が「為一」という画号を名乗った時代であった。この為一時代、北斎は多くの連作物を仕上げている。そして為一時代の最後を飾ったのがこの「諸国滝廻り」だった。その後、天保5年、75歳を迎えた北斎は「画狂老人卍」の号を用い始めた。名声を得た連作浮世絵から急速に遠ざかり、最晩年の気力を肉筆画の分野に注ぐことになる。浮世絵師の本分である風俗を描く世界から離れ、和漢の故事事典や宗教的題材、また動植物に基づく作品が大半を占めるようになる。「諸国滝廻り」を描き終わった北斎の心に浮かんだものは何だったのだろうか。べろ藍を駆使した浮世絵風景画は十分描き尽くしたと思ったのだろうか。それとも幕末の急変を告げる世情の中、不安の時代の申し子として常に新しいものを模索する単なるプロセスに過ぎなかったのだろうか。後者の方がいかにも北斎らしく思える。観衆が「諸国滝廻り」に感嘆している間に、北斎の眼は既に新しい画境を追い求めていったと思えるのだ。それこそ生涯九十回以上の引越を行い、三十回も画号を改めた北斎の真骨頂だと考える。




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